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月報 No.187(2020年9月号)さあ、向こう岸に渡ろう

この集会の主題聖句 「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」 と主が言われた時、主はカファルナウムに押し寄せる大勢の群衆に教え、祈り、癒すという多忙な日々を送っていた。時には群衆全員から見えるように船にのって少し漕ぎ出して教えたこともあったほど、大勢にかこまれて休む暇もなかった。この日、「向こう岸へ渡ろう」 とおっしゃったのは、別の場所へもみ言葉を届けるために他ならないが、弟子たちにとっては気分転換ができる願ってもいないチャンスだったかもしれない。舟は穏やかに漕ぎだされ、イエス様は艫のほうで枕して眠りについた。しかし山に囲まれたこの湖にはよくある、急な突風が発生した。

この時船上にいた弟子たちのうち、4人は漁師だからこうした荒波への対処には熟練している。しかしその彼らですら身の危険に怯えるほどの高波に襲われ、船の浸水が深刻になってきた。彼らは青くなり主イエスを揺り起こし、舟を漕ぎ出したことを非難するかのような口調で不安を訴えた。主に従うという、最も頼もしい道を歩み始めたのに、熟練したプロでも打開できない大患難に出くわすことがある。しかも主は助けてくださるどころか眠っている。


「神様がいたら世の中こうはならないでしょう」 というコメントをよく聞くが、「信じているのに、祈っているのに、どうして神様は嵐を鎮めてくださらないのか。もう信じられない」 と、本当に沈んでいってしまう人もいる。神様と共にいても人生にはこういうことが起こる。しかも状況は改善せずどんどん悪化し崖っぷちまで追い詰められていく。そして主に向かって絶叫する。

主はむくりと起き上がり、弟子たちを一瞥すると、風と波を叱りつけた。湖は一瞬にして鏡のように凪いだ。しかし主が振り向いて弟子たちに仰った言葉は、「大丈夫か?」ではなかった。「あなた方の信仰はどこにあるのか」 これは厳しい言葉だが、イエス様は 「お前たちには信仰がないから、もう救ってやらない」 とはおっしゃらない。つまり、このような、嵐に遭うと信仰も吹き飛んでしまうような私たちへの救いが実現するために、神様は実は、私たちが気が付かない所で働いておられるのだ。

こうして舟は、船体はボロボロになったかもしれないが無事に向こう岸に着岸した。主が 「あちらへ行こう」 と仰ったら、何があってもそれは実現する。そしてここは今までいた場所とは違う所である。向こう岸に渡ろうとおっしゃった主イエスが目指していたのは、それまでいた場所にそのまま安住し続けるのではなく、まったく新しいところに行き、新しい経験をすることを通して弟子たち自身がまた新たに作り変えられる事でもあったのではないか。事実、風や波を叱り鎮めたイエス様をその目で見た弟子たちは心底恐れおののき、対岸に着いたときには舟を漕ぎ出す前とは違った弟子になっていた。

向こう岸が具体的にどこなのか、そして私たち自身がどのように造りかえられるのか、そこへたどり着くまでに何が起こるのかは見当もつかない。しかし主イエスが私たちを連れて行こうとしておられるところを、私たちも目指して歩んでいこうではありませんか。危険があるかもしれない。自分が変えられてしまうかもしれない。しかしそれらを恐れず、ためらわずに。本当に主が共にいてくださるなら、必ずたどり着くのだから。

向こう岸に着いたとき、弟子たちは更に確かな信仰を持つ信者に成長していた。

私たちもまた、主が新しく造り替えてくださる私自身に出会いたい。


主イエスはそんな向こう岸へ、私たちを招いておられる。

参考メッセージ:大阪姫松教会 藤田 英夫 牧師



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