私たちはなぜ祈るのか エペソ人(エフェソの信徒)への手紙 6 章 18 節 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
この言葉はパウロはローマの獄中でエフェソの信徒たちにあてた手紙に書いた御言葉です。しかし私たちのすべての必要を知っている神に、なぜ絶えずいつも祈れと書いてあるのでしょう。
まずそれは、祈りによって神と交わることができるからです。祈りは基本的に神との交わりであり、コミュニケーションです。神との対話のない祈り、霊的なコミュニケーションのない祈りは霊的に虚しい、一方的な祈りで終わっています。
私たちが医師にかかるとき、ドクター と 1 対 1 で向き合い、「どうしましたか?」と問いかけられて自分の症状をありのまま訴えます 。ドクターは診察をし、 診断を下して必要な治療を施してくれます。自分の症状だけを言って帰るのでは診察を受けたことにな らず、治療も受けられません 。祈りも同じで、神に祈り求めた後、神様の声を聴こうとしないままアーメンというのは虚しい祈りです。
祈りは神様との交わりです。祈りがないクリスチャンは神様との交わりがない。 従って 神様についてあまりわからない。だから聖書は絶えず祈りなさいと言っているのです。 (新共同訳では 「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」)
次に、祈ることによって神の知恵が与えられるからです。ヤコブの手紙1 章 5 8 節、特に 5 節 に 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」 とありますが、ここで言う “知恵” は “知識” ではありません。善悪を判断する力のことです。
私が教会や集会でメッセージをするとき、私を含めた全員に何が必要なのか教えてくださいと 頻繁に 祈ります 。そしてメッセージが終わり 「私に必要なメッセージでした」 と言ってきてくださる方がいつも何人もいます。その時私は教えてくださった神様に感謝するので す。自分が間違いのない生き方をしたいと思ったら神の知恵がいる。神の知恵は祈りによって与えられるのです。
また、祈りによって神の平安が与えられるからです。クリスチャンはイエス ・キリストの贖いを信じて罪赦され、神との平和を得ています。しかしすべてのクリスチャンが神との平安を持っているかというとそうではない。 神との “平和“ と神との “平安“ は別なのです。
神との平安は祈りによって与えられます。祈り というのは神様の前に自分を 正 すという意味があります。「神様、もし私に間違いがあれば教えてくださ い 。悔い改めます」 と祈り、自分を正す。これが祈りです。こうして神様と正しい関係になり、御心にかなう願いをする。それを続けていく。納得いくまで祈 る。「 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます 」(ピリピ人への手紙 4 章 6 7 節)
最後に、祈りによって神の力を拝することができるからです。聖書の中には祈りによって神様の力や奇跡を拝した人がたくさん出てきま す。
アサ王の 60 万人の軍が 400 万の 敵 軍に勝利を得た時も(歴代誌 II 14 章 8 12 )、ヒゼキヤが 戦闘の直前、敵軍の兵士 185,000 人が夜のうちに死に絶えていた時も(イザヤ 7 章 15 20 )、神 が アサとヒゼキヤの正しい祈り、神の栄光のための祈り を 聞き届けられたからです。祈った彼らもどれほど励まされ、祈りの大切さを 痛感したことでしょう。このように 私たちは祈りの祝福を体験できたら幸いです。私たちは祈りによって、神様の力を拝することができるのです。
祈りは誰でも、どこでもでき、神様との聖霊的な直結を得る。この時ほど強いものはなく、だれもその人を神様から引き離すことはできません。ぜひ、「私の祈りを充実させてください」 と神様に祈りましょう。
北島 嗣郎 伝道師
Comments