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月報No.190(2020年12月)ことばは人となられた

ヨハネによる福音書1章1~5節、14節 「ことばは人となられた」 北島 嗣郎 伝道師


初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。

ことばは神であった。

この方は、初めに神とともにおられた。

すべてのものは、この方によって造られた。

造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。"

ヨハネの福音書 1章1~5節


ヨハネ1:14 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」 この言葉はクリスマスの本質を記しています。言葉というのは一種の人格のようなものだと思います。言葉は人の思いや計画を伝え、励まし、慰め、傷つける。言葉によって挫折から立ち上がる人があり、自殺する人もある。聴く人を影響する力を持っています。そして神の口から出た言葉、それがキリストです。


創世記1章の天地創造もすべて神の言葉でできたのです。3節に神が 「光あれ」 と言われたら光ができた。この光はキリストです。2節 「神の霊が水の上を動いていた」 これは聖霊です。つまりキリストは新約聖書で初めて登場する方ではなく、天地創造の前からおられたのです。ではなぜキリストは人となってこの地に来られたのでしょうか。目的は3つあります。


1. 父なる神を示すためです。多くの方は自分が何のために生まれ、生きているのかが解らない。私もかつてそうでしたが、それは神の存在を認めない進化論が世を覆っているからです。進化論によると我々の先祖は猿で自分は偶然生まれたという理解になります。偶然には意味も目的もない。だから人は悩み、疲れていくのです。しかし詩編139:13 に書かれているように、実はあなたは神様によって造られた。神様が目的をもって造られたあなたは特別な人物なのです。(イザヤ43:4) この創造者である神をわかりやすく教えるために、神はイエス様を送り、神を知りなさいと言われるのです。


2. 私たちの罪をあがなうためです。聖書で言う罪とはこの世で言う犯罪ではなく、神を認めず、神を否定し、自己中心的に生きるというその生き方が罪なのです。陶器師が目的をもって陶器を造ったら、その陶器が 「私の作り手はいない」 と言うのと同じです。何でも造られたものには意味と目的がある。神は私たちをご自分の栄光の為につくられたのですが、人はその神を認めず自分勝手に生きている。この的外れな生き方が人の人生を不幸にしているのです。そんな私たちの罪を赦し救うために、イエス・キリストは私たちと同じ体をもってこの世に来られ、全く罪のないご自分を十字架の上に捧げてくださったのです。イエス・キリストは死ぬために生まれてくださったのです。


3. 私たちの弱さに同情し、私たちを助けるためです。(ヘブル2:18、4:14-16) この世に生きる者は誰でも死ななければなりません。自分の霊と相対し、同時に神と対決せざるを得なくなる死。たった一人で立ち向かわなければならない死に人は恐ろしいまでの孤独と絶望感を覚えます。この死の呪縛から解放されれば人は本当に自由になることができ、どんなことでも積極的にできるようになるのです。ヘブル書4:14にある大祭司とは、生贄を捧げて神と人間の間の橋渡しをする人です。イエス・キリストは人間が自分の罪によって対峙しなければならないこの問題の解決のため、ご自分を生贄として捧げられたのです。これほどの試みにあわれたイエス様だからこそ、試みられている人を助けることができるのです。これは素晴らしいことです。


私はかつて、神とは遠い所にいて私を見張り、行いに応じて罰と呪いを与える存在だと思っていました。でもキリスト教がいう神はそうではなく、神ご自身が人間の世界に住み、人の言葉を話し、弱い人に寄り添い、泣く人と共に泣き、孤独に苦しんでいる人を慰め励まして歩まれたのです。これは私たちに限りない恵みを与えるためです。皆さん、このキリストが十字架で呪いを受け、死んで葬られ、蘇られていつも私たちと共におられる今、もう呪いはなくなったのです。ただ恵みだけがあるのです。栄光の神が罪深い人間の姿になって、この世に降られたのは何のためだったのか?もう一度覚え心から主に感謝を捧げてこのクリスマスを過ごしたいと思います。


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