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月報 No.186 (2020年8月号) 放蕩息子

更新日:2020年10月4日

ルカによる福音書15章 放蕩息子 北島嗣郎 伝道師

息子は疑っていなかった。父の元から離れて自分の自由を謳歌するところにこそ幸せな人生があると。そこで存命中の父に自分の相続財産を要求し、それを得ると数頭のラクダに荷物を乗せて意気揚々と出て行った。そして思い通りに過ごした結果、もらったお金は底をつき、衣食に困り、飢え死に寸前に至った。そこで、この際実家に帰って父に詫び、使用人として生きようと決心してトボトボと家への道を歩いた。しかし思いがけず父は外で彼を待っていた。遠くから歩いてくる息子を見つけるやいなや走り寄り、抱きしめ、歓迎して再び息子として受け入れた。

この有名な話には3つのポイントがあります。まず、神から離れている人間の姿。これは私であり、あなたです。神から命と健康を与えられ、愛され養われていながら神を否定し、自分の欲望を追求する姿です。しかも、神を認めるといえば自分の要求を満たす偶像を造り、それを拝んで信仰があると言っているのではないでしょうか。誠に自己中心で的外れです。これを聖書は罪と呼んでいます。

聖書はまた、人間が神の形に似せて造られたと書かれてありますが、この「形」は原語のSelemで「影」を意味します。本体なしに影が存在しないように、神なしに人間は存在せず、本体から離れた影も存在しません。人間は神から離れたら存在の意味を失い、本当の自由を見失います。神の真理の中にこそ自由があるのです。

2つ目は、神に立ち返る人間の姿です。人間には肉の目と霊の目がありますが、15章17節にある「我に帰った時」、息子の心の目が開いたのです。自分中心に生きている時はこの目が閉ざされ、本来の「我」が眠っているのです。サタンがそうさせるのです。サタンは人が神に従うことを妨げたいからです。


そこで神様は人を試練に遭わせます。そして人はどん底に落ちて自分の弱さを知った時に我に帰り、目が開いて、偽りの我から本当の我へと目覚めるのです。試練は恵みなのです。ですから試練に遭ったときには、ぜひ上を見ましょう。その時、我に帰るということは本当に大切なことです。

また、放蕩息子は我に帰って罪を自覚し、心から悔い改め、父に罪を告白しました。酒やギャンブルをやめることが悔い改めということではありません。神はいらない。自分は神から離れた道を行くという考えが間違っていることを認め、改め、神様を見ることが悔い改めです。クリスチャンの中にも救いの実感がなく、自信をもって信仰を語ることができないという人が多くいますが、そういう人はまだ本当の意味で1対1でイエス様に会い、私は罪人ですと告白していない人なのではないでしょうか。信仰において、罪の告白もまた、とても重要なことです。

では、立ち返った人間はどのように迎えられるのでしょうか。これが最後のポイントです。


20-24節を読むと、ぼろ雑巾を身にまとったようないでたちで、頭髪もひげも伸び放題、痩せこけて別人にしか見えない息子を遠くから認めて駆け寄り抱きしめ、何度も口づけをした父。もう息子と呼んでもらえないと謝る彼の身なりを整えさせ、相続者がはめる指輪をはめさせて家族が戻った喜びの宴を用意する父。これが神です。


本当に自分の間違いを認めて告白し、あなたを信じますと言った時、イエス様の十字架によって人はどんな過去の罪も赦され、完全に潔白な神の子供、相続者としての地位が与えられるのです。


神様があなたに一番求めているのはあなたが神様のみ言葉にとどまり、御心の中にいることです。この愛の神を信じて従う、真の神の子になることをお勧めします。


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