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執筆者の写真バルセロナ日本語で聖書を読む会

月報No.196(2021年6月)「豊かさ」とは

ルカによる福音書9章 7-17節 藤田 英夫 牧師


12人の弟子たちが主イエスに各地に派遣されて実施した福音宣教は人々に大きな印象を与え、領主ヘロデの耳に届きます。ヘロデは、自分の地位を守るために反乱勃発の原因になりそうな人物、目障りな人物を処分していました。洗礼者ヨハネもその一人です。ヘロデが兄弟の妻を横取りしたことをヨハネが指摘し批判したことで、彼はヨハネの首をはねたのです。このヘロデは、多くの人の心をつかむ評判の男イエスの存在が非常に気になり、「いったい何者だろう」 と考えたとあります。


この問い自体はとても大切です。9章18節以降に主が弟子たちに 「群衆は私の事を何者だと言っているか」と問われるくだりがあり、ペトロが「神からのメシアです」と答えます。これがペトロの信仰の告白となるのですが、この問いはこのように、それぞれの内にある主イエスに対する思いを引き出す問いなのです。この意味でヘロデも大切な問いの前に立っていたのです。しかし彼の思いは好奇心以上になることはありませんでした。そのヘロデの姿は23章に記されています。しかしルカはこの問いに対してきちんと答えを示そうとします。それが9章10節以降に記されている「5千人に食べ物を与える」出来事です。これは「イエスとは何者か」という問いに対して、主イエスが起こされた出来事を通して示された答えと言えるからです。


この日、派遣した弟子たちの帰還を受けて、群衆を離れてベトサイダという町に退かれましたが、群衆は彼らのあとを追ってきました。しかし主は「今日は静かにしていたいからまた明日来てほしい」とは言われず、いつものように彼らに神の国を教え、病人を癒されます。夕食の時刻になったときに弟子たちが群衆の解散を提案しましたが、主は彼らに「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。そこにパン5つと魚2匹だけしかない事ももちろんご存知だったはずなのにこう言われたのは、ご自身がどういう方であるかを弟子たちに示すためです。そして主がなさったのが、5つのパンと2匹の魚で何千人もの人々を満腹させるという事でした。それによって主は、ここに主イエスがおられるという事がどれほど大きく大切なことであるかを示されたのです。弟子たちは、主イエスが自分たちの思っているより遥かに豊かに人を養うことができる方であることを味わったのでした。


主イエスが与えてくださる養いとは、人生が思うようにいかなくても自分の命を喜び感謝できるようになる、命の豊かさではないでしょうか。数年前に若くして亡くなった会員の言葉には、まさにその喜びが表されていました。


「病気が治ることを願ったけれど、それはかなわなかった。しかし、そのときよりも主イエスを近く感じる今、病をかかえながら神の定めた道のりを最後まで歩むことだけが自分の仕事なのだと確信している」


「死は恐ろしいけれど、おびえてばかりいても意味はない。今日生きていることに感謝して眠りにつき、朝目覚めることができる幸せをかみしめるほうがずっとすばらしい.そうやって一日、一日を生きていれば、神はいつかきっとふさわしい死を与えてくださるのだろう」


「たとえ病を治してくださらないとしても、主イエスはやはり自分の前を歩いておられる。そのあとを、わたしはついていくことができるのだ。」


豊かないのちを生きるということの一つの例がここにあると言えるのではないでしょうか。そう思えるようになったきっかけは分かりません。本人も、突然分かったと書いていました。何が分かったのかと言えば、それは、自分は一人ではないのだということです。


一人ではない。それは言い換えれば、私には、私のことを本当に大切に覚え、愛してくれる方がいてくださるのだということです。主イエスは、私のことを確かに愛していてくださる。大切な、大切な相手として、どんなときも覚えていてくださる。そのことを知るとき、私達は自分自身のことを大切に覚えることができます。私は真実に愛されているのだというそのことが、わたしの命を尊いものにしてくれているからです。こうした主イエスとのつながりや交わりが、私達の命を豊かなものにしてくれるのです。


この何千人もの人が主イエスによって満たされたというこの出来事は、今も教会で繰り返される聖餐式を思い起こさせるとも言われます。神が主イエスにおいて注いでくださる真実な愛を、実際に手に取り、味わう形で表しているのが聖餐式です。主イエスが、これはわたしの体、わたしの血と言って与えてくださるパンと杯にあずかることを通して、わたしたちは主イエスご自身にあずかります。主イエスは確かにわたしの主であってくださり、わたしとの間に、何ものによっても断たれることのない交わりを結んでいてくださるのだということを覚えるのです。そのようなお方がわたしたちにはあることを、聖書は教えてくれているのだと思います。




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