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月報No.195(2021年5月) 12弟子の派遣

ルカによる福音書 9章 1-6節 安藤 廣之牧師


主イエスはご自分がなさる宣教や癒しを弟子達にも担わせるため、彼らに権威を与えて各地に派遣しました。キリスト者は「遣わされる」と聞くと、自分の意思より大きな力に呼ばれて、送られた地で自分の使命を全うする事と理解します。自分の意思で今の場所に居住する私達も、これが自分を越えた何かの意志に導かれて派遣されていると考える事はできないでしょうか。


少しテーマからそれますが、ヘブル書12章の始めには信仰生活というものがリレー競争に例えられている所があり、チームの第一走者とアンカーがイエス・キリストとあります。信仰の創始者であり完成者です。またヨハネ6章の最後に、『あなたがたはこの世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい、私は既に世に勝ったのです。』 ともあります。レースの最初と最後が勝利者イエス様である以上、チームは確実な勝利に向かっているのです。大切なのはそんなキリストと自分がしっかりと繋がり、次世代にたすきを渡すという事です。主が選ばれた弟子たちは、イエス様が処刑された時にあっさり主を裏切る弱い人間でしたが、それでもキリストの証人としてその働きや教えが継承され、今に至っているのです。


キリストに権威を与えられた弟子たちは、霊的、肉体的の両面で目に見えない力が与えられたことになります。この事はイエス様の遺言でも言われています。「あなたがたは天に於いても地においても一切の権威が与えられている」「全世界に出て行って全ての造られた者に福音を伝えなさい」。最初の使命は、この世の人々に、神様の支配に気づかせるというものです。


例えばドイツにいる者はドイツの法律と権威の元に置かれ、警察や司法機関がその法律に照らして違反と判断すれば、幾ら日本の習慣とは違っても犯罪となり、それなりの制裁を受けなくてはなりません。同様に、イエス様がこの天地万物、私達人間を作られたお方の子であるならば、その権威は主を信じる者達だけでなく全人類に有効ということになります。信じる人達だけに有効であるならばそれは普遍的な真理とも救いとも言えません。その意味でもこの働きは、弟子達の努力と頑張りに掛かっているというのではなく、この方の後ろ盾、権威、それがある故にもできる事だと思えます。


2番目は、権威を頂いた者にどのような働きや生き方が期待されているのか、です。旅には最小限の持ち物をという点ですが、当時のユダヤでは律法学者やラビ、その弟子に対しては、もてなすのが当前だったという背景があります。ただし少しでも待遇の良い家を求めて、家から家へ渡り歩く(パリサイ派の)ようなことはせず、自分を迎えてくれた最初の家に留まるようにと教えています。人は先の事を心配しますが、主から受けた使命は主に頼ってなすべきで、金品に頼るものではないのです。


また、弟子達を受け入れない町を出るときには足の裏の塵を払い落としなさい、とあります。これは当時のパリサイ人らが異邦人の土地から戻って来る際に、その土地の汚れを約束の地に持ち込まない意味でなされていた行為ですが、ここでは福音を拒んだ町が裁かれても自分達の責任ではないという意味にもなりました。弟子達に与えられた権威は裁くためではなく、赦し、救い、癒す事の為に使う

ものです。しかし再臨のキリストは違います。その様な恵みを如何に受けたか、そんな総決算の為にも審判者としてやって来るのです。よい意味でも悪い意味でも主からの報いがあることを聖書は警告しています。


主イエスが全権をゆだねられた弟子たちは人並みの人物でしたが、それは今も同じで、こうした人物を恵によってたてて下さるのが信仰の創始者であり完成者であるのだと思います。私達もこの主に選ばれ、置かれた場所に遣わされているという自覚を持つならば、殊更に物やお金、自分の力や知恵に頼らない、神様の恵みを妨げない器となりたいと思わせられます。






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