ヨハネによる福音書 21章14節~17節 北島 嗣郎 伝道師
この聖書箇所は、復活したイエス様がガリラヤ湖で漁をしている弟子達にご自分を現された時のことですが、主がシモン・ペテロに「あなたは私を愛していますか」と3度も聞かれたその理由は、おそらくペテロが大祭司の庭で主が裁判を受けている最中、3度も 「あの人を知らない」 と言って、イエス様を否定したからだと思います。(マタイ26:69-75) しかし主は、それほどの裏切り行為をしたペテロを愛し、赦し、漁に出ている彼を求めて浜辺に行って焚火をたき、食事の用意をし、何も獲れず疲れて戻ってきた弟子たちを迎え入れて食事の交わりをしたのです。この問いは、この食事の間になされました。
ユダヤの社会では、食事を共にすることは和解を意味します。つまり、弟子たちに裏切られたイエス様が、彼らのために食事の準備をされたというのはとても大きな意味を持つことです。心ふるわせて感動するベテロの姿が目に浮かびます。
ところで今からちょうど8年前のこと。私は、当時自分の仕事に夢中でした。恵まれた上司と部下のおかげで私はどんどん出世しました。いわゆるこの世的な成功者でした。しかし仕事で成功すればするほど私は心の中で虚しさを感じていました。世間の人は、自分のバックにある会社の名前と肩書きを見ているのであって、自分を評価しているのではない、自分は本当はとても無力なのだ、価値がないのだ。自分はどこから来てどこにいくのだろうか?なんのために生まれてきたのだろうか?自分に何の価値があるのだろうか?という感情が心の中にいつもあったからです。
ところが、私は、どんどん大きな責任を任され、結果として運転手付きの贅沢な社宅に住み、飛行機に乗ればいつもファーストクラス、夜は、毎晩アメリカ大手企業のトップとの夕食会、日本とアメリカのマスコミへの出演などが続きました。この時です。私は心の中で「もしかしたら自分には力があるのではないか?」と昂り(たかぶり)が頭を持ち上げてきたのです。
昂る(たかぶる)というものほど恐ろしい罪はありません。昂り、それは自分を自分の力以上に見せようとすることです。そして昂るということは、神様の栄光を盗んでいることになるのです。栄光というのは、神のものなのです。人間に栄光はありません。
高慢は人を盲目にするのです。雪が積もれば、道が見えなくなるのと同じように、心が高ぶれば、自分の道がわからなくなります。そして転落することになります。世の中には、つまづいたり転落することがありますけれどほとんどはプライド、高慢が理由なのです。いずれにしても私たちに与えられているものは全て、命であれ、健康であれ、富であれ、時間であれ、神様が下さったものなのです。それなのに、自分の力でここまで成し遂げたかのように見せるプライドというものは、非常に恐ろしい罪です。
その昂りの絶頂の時に、私は病に侵され、入院し手術を受けることになりました。簡単な日帰り手術ということでしたが、術後に血圧がどんどん下がり、手術室から集中治療室へ直行した私は、朦朧とする意識の中で頻繁に出入りする医者と看護師、横で泣きながらソファに横たわっている妻を見て、「あーもうこれで自分は終わるのだな。」と思いました。と同時に「結局自分の人生はなんだったのだろうか?これだけ神様から離れて、神様に叛いて生きてきたのだから、どんなツラして神様に会えるのだろうか?」 と思っていました。
この時、「もういい加減にしないか?」という声がはっきり聞こえ、復活したイエス様が弟子たちと和解の朝食を摂る光景がかすかに見えた気がしたのです。
私は回復して退院してもこの事の意味を考えていました。そこへ、会社の赤字決算を理由に突然、解雇を言い渡されたのです。私はその時、口では 「わかりました。責任を果たせず申し訳ありません」 と言いながら、心の中では「ああ、あの病院での体験はこのためだったのだ。超傲慢で、神様から離れっぱなしだった放蕩息子の私を、大病を通してつくり替えてくださったのだ。」 と理解し、悔い改めて宣教師への道を歩み始めました。そしてこの箇所を読んだとき、「あなたは私を愛していますか」 という言葉が私に強く迫ってきて離れることができなくなり、私は 「主よ、わたしはあなたにすべてを捧げます」 と答えました。それを昨日の事のように覚えています。
この問いはあなたにも向けられています。それは、まず主があなたを愛してくださっているからです。あなたが主よりもこの世を愛し、イエス様など知らないと言って神に背いても、それでも神は無条件にあなたを愛し、あなたが滅びないようにと我が子であるイエス様をあなたの代わりに十字架刑に処してあなたの救いの道を確保してくださったほど、愛しているからです。これほど愛されても神を否定して自分勝手な道を歩む人は罪びとであると聖書は教えています。私はそうです。でも神は私が生まれる前から、人生で罪をおかす私のために、先に我が子の命を生贄にして私の罪をあがなってくださっていたのです。
また、聖書には 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」 と書かれています。つまり神を愛することは神の掟なのです。これが神様のみ言葉の中で一番大切なことです。そして主を愛するとはじめて、イエス様が現実に生きておられることが体験的にわかるようになります。あなたにとってイエス様は現実でしょうか?主は観念的なものではありません。み言葉に従ってイエス様を愛するとき、主が現在ここにおられることと、神様の聖霊が私達のうちに働いて慰めや励ましを与えてくださるがわかるのです。
主と共にいない状態で歩んでいた私は、この世の勝者であっても霊的な命がなく、内面が満たされていませんでした。世の誘惑に乗り、こんなはずではなかったと何度も思ったことを覚えています。しかし主を愛し、み言葉の上に留まっているなら、神の力で世に勝つことができることを学びました。だからこそ、「あなたは私を愛していますか」 と主はあなたに聞かれるのです。愛する対象は人を影響します。価値あるものを愛したら、わたしたちの人生はかけがえのない素晴らしい人生となります。神を愛する人生は、内側から祝福に溢れた充実感を感じるのです。
何故イエス様はあなたに「あなたは私を愛していますか」と聞かれるのでしょうか?それは、第一に私たちは神様にまず愛され、今も愛されているからです。第二に、一番の御言葉の戒めは主を愛することだからです。第三に、主の御言葉をいただいてその御言葉の上に立って生きて、主を愛する時、私たちはイエス様がリアルであることを感じられるから。第四に、主を愛する時、私たちは世の誘惑に勝利する人生を送ることができるからなのです。
「あなたは私を愛していますか」という問いに、どうかペテロのように「はい主よ、私があなたを愛していることはあなたはご存知です」と言えるように決心し、実行していきたいとおもいます。
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