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執筆者の写真バルセロナ日本語で聖書を読む会

月報 No.200 (2021年10月)信仰告白と自分の十字架

更新日:2021年12月3日

ルカ 9章18~27節

信仰告白と自分の十字架 ~キリストの弟子とは~ 

安藤 康之 牧師


主イエスが弟子たちと共に過ごしてしばらくたった頃、「群衆は、わたしのことを誰だと言っているか」 と問われました。その答えが出そろった頃、今度は弟子たちに同じ質問をされます。これは主が彼らに、あなたがたも群衆のひとりなのか、それともキリストの側に立って神と人とに仕える者なのかをはっきり区別させようとしているのだと思います。ペトロは主が発せられたその問いに 「神のキリストです」 と答えました。


弟子とは、まずイエスをキリストだと告白する者だということ、そして自分の十字架を負って、自分が告白したキリスト・イエスについて行く者です。それは、礼拝で目立たないように座って聞いているだけの立場から、自分も主の弟子として仕えていく、僕となっていく、そんなチャレンジを受けることとも共通しています。バルセロナ集会も30年の間には恐らく百人を超える人達が関わられたと思いますが、その中の何人かでも、群衆から弟子へ、イエスへの告白をするに至った方もいたことを思うと、その働きの尊さを思わずにはいられません。


キリストというのは名前ではなくメシヤ(救い主)という称号です。つまりペトロは立派な告白をしたのですが、その彼ですら立派な弟子になった訳ではありませんでした。この直後には主に強く叱責された記事があり、十字架の裁判の陰でイエスを知らないと3度も言ってしまうような弟子でした。このペトロがこんなに立派な告白ができたのは、福音書で主がペテロに言われたように、この告白は天の父が示したからです。聖霊に拠らなければイエスを「主」と告白できないのです。


このようにイエスを告白した弟子は、次に自分の十字架を負ってキリストについて行く者となります。主は慎重に、また厳粛に言葉を選んで苦難のメシヤにあずかる生き方、最終的に、本来の命を得る生き方を示されます。(ルカ9:23) それが自分を捨て、自分の十字架を負ってこの方についていくという事であり、この方とその言葉を恥じとしないという事であり、このような生き方をしてこそ自らを救うことになるということです。ただ、自分の十字架を負うとは、処刑されようとする犯罪者の姿になるということで、簡単には受け入れがたい。しかし自分の罪を認め、裁かれて当然という自分を認める生き方が主の言葉に示されているのです。弟子とは、何かの重荷や困難、試練等というものを背負ってこその弟子と言えます。


主は、たとい全世界を手に入れても、真の命を損じると言われています。これは創世記の3章、人間が造り主との関係を損なった事によって入ってきた本来の命を失うこと、その意味での死を言っていると思われます。人は生きがいを求めたり、自分は何の為にあるのかと考えたりしますが、人間は神の似姿に造られているので、本来の命、永遠、喜びへの憧れがあります。そして最後には造り主なる方の前に立って総決算をしなければならないと聖書は言います。主の言葉を恥じる者、つまり自分の十字架を負わずキリストよりも自分を大切にしてきた者は、この時に取り返しのつかない報いを受けてしまうと言っています。


私達は自分で自分を救おうとしているのか、それともそんな自分を十字架に付け、自分の当然負うべき十字架を背負って、この方について行こうとするか、それは日々、問われている主からのチャレンジでもあるのです。しかし主はここで、これからご自分が歩もうとしている厳しい道を示し、それに倣う様に勧めつつも、あくまでも私について来なさい、従ってきなさいと招いて下さっているのです。そんな主の招きに応じて行こうではありませんか。


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