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執筆者の写真バルセロナ日本語で聖書を読む会

月報 No. 188 (2020年10月)救われた者として生きる

ルカによる福音書8章 26~39節

主イエスが弟子たちと共に到着した“向こう岸”はユダヤ人の地ではなかった。常に生活している場所とは常識も文化も違う土地で、神様が、汚れた動物だから触れても食べてもいけないと戒められている豚を飼育しているような反ユダヤ丸見えの所だった。


このような所でまず出会ったのが、悪霊に取りつかれ、鎖につながれて墓場に住み、裸でわめいている男である。この男は鎖でつないでもそれをちぎって暴れる凶暴な人物とある。弟子たちはさぞ及び腰になったであろう。

主がこんな場所までやってきて、神の力により男を悪霊から解放したことは、主イエスの福音が遠く異邦人の地にも届き、そこでも力強く働いて救いが実現することを示している。

イエスと共にいる弟子たちはやがて各地に派遣されることになるが、福音宣教とは未知の場所、未開の地に入っていく働きなので様々な壁にぶつかる。その時、本当に福音の力を信じていないと宣教はできない。これは日本に来て伝道活動をした宣教師たちが体験したはずの事であり、福音はこうして確かに私たちにまで届けられた。主の弟子たちも宣教のために派遣された時、この時の目撃体験に大いに励まされたのではないだろうか。

ゲラサ人の男に主が 「汚れた霊、この人から出ていけ」 と命じると、男は主イエスに向かってわめいた。いや、男ではなく、彼の中に住む悪霊が叫んだ。「いと高き神の子イエス、頼むからかまわないでくれ、苦しめないでくれ」 と。もしこの人自身が語れたなら、悪霊から解放してほしい、救ってほしいと願っただろうが、彼は自由をはく奪されていた。


現代でも社会のしがらみに縛られて助けを求めながらも声すら挙げられず、本来の姿で生きることができない人は少なくない。この状況はゲラサ人の男と共通するものではないだろうか。主イエスはそんな私たちを解放してくださる方、救ってくださる方なのだ。

悪霊(レギオン)はイエスがどんな方なのかを知っており、大勢でも自分たちの力では太刀打ちできないと自覚していたので、せめて豚の中に入らせてほしいと頼んだ。主が許可するとレギオンは豚に移ったが、豚は湖になだれ込んで死んだ。この事は、悪霊の願いにもかかわらず底なしの淵へ落とされてしまったことを表している。そして男は奪われていた自由を取り戻し、本来の自分を生きることができるようになった。


主が与えてくださる罪の赦しの恵は、まさにそのようなもの。ゲラサの男も悪霊から解放されると服を着た。この「服」


はイエスを意味している。つまり、神は主を信じた人を主イエスという服を通してみてくださるので、主イエスが果たされた服従も、服従によって義と認められたことも、すべてその人自身のものであるとみてくださる。何か良いことをしたから誉められるとか好かれるのとは違う、もっと根源的なところで受け入れられ、喜ばれる神の愛。この恵みの中で、罪の赦しこそが本当の救いであること、私たちは真に愛されていることを知らされる。


正気に戻ったゲラサ人の男もこの喜びに溢れ、主イエスに従っていきたいとしきりに願ったがイエスは彼に、家に帰って神が何をして下さったかを語るように命じられた。それが彼に与えられた召しだった。彼にとってこの召しに応えることは、主イエスと共に生きる事そのものであったし、主イエスを愛しているということそのものであると理解したので、喜んでその召しに従った。

私たちにも与えられている召しがある。しかし日常の中でいつのまにか私たちの心が弱り、福音を信じているつもりではいても、その力が本当に私たち自身において働くことまではわからなくなってしまうことがある。このようなときは主イエスの力や福音の力を小さく見積もり、限定してしまって、私たちを喜びや祝福を味わうことから遠ざけてしまう。そのような時はこのみ言葉を読み返して恵みの大きさを思い出し、神が私たちにしてくださったことをことごとく話して聞かせるような生き方をしていきたい。


大阪姫松教会 藤田 英夫 牧師



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